2017年5月20日に和歌山市内で行われた「安倍政権に反対する和歌山デモ ABE NO! DEMONSTRATION」でのスピーチから、和歌山大学の越野章史先生のスピーチ全文をご本人から提供された原稿で紹介します。安倍政権が戦前回帰の改憲をめざして暴走する中、「教育勅語と共謀罪」というタイムリーで核心的な内容を、専門の教育史を踏まえて分かりやすく語られたものです。 ☆ ☆ ☆ 皆さん、こんにちは。 私は、教育の歴史を研究しています。 今日は、森友学園問題によって急に話題になるようになった「教育勅語」というもの、森友系列の幼稚園で子どもたちが暗唱させられていたものですが、それがどういうものなのかを話してほしいと言われて、この場に立っています。その話だけしようと思っていたのですが、昨日になって、国会で審議されている、いわゆる「テロ等準備罪法案」、以下では「共謀罪法案」と呼びますが、それが衆議院の委員会を通過してしまいました。これはとても重大で危険なことだと思い、急遽、この二つを合わせて話をさせてもらいたいと思います。 「教育勅語」と「共謀罪」、この二つには関係がないんじゃないか、と思う人も多いかもしれませんが、私は、この二つがあわさった時、日本の社会がどうなるのかを想像してほしいと思うんです。それを具体的に想像するために、今からおよそ80年と少し前、1930年代の日本社会がどのような社会だったのかを、少し話させてください。 1930年代の日本と言えば、教育勅語がつくられてからすでに40年以上が経過しています。学校教育を通じて子どもたちはそれを繰り返し暗唱させられ、意味はわからなくても、それが大事なものだということだけは徹底的に教え込まれています。当時の小学校高学年の道徳の教科書には、勅語の意味を解説した教材も収められていますが、そこで言われていることは大きく2点です。 一つは、日本という国が他の国とは違う、特別なすばらしい国だということです。なぜすばらしいかと言えば、日本には遙か昔からずっと続いてきた天皇家という統治者がおり、その統治者はやはり遙か昔に道徳を樹立し、この道徳を国民全員が受け入れ、実践し、受け継いできたのだ、というのです。つまり他の国とは違い、日本という国は、ありがたい天皇家と国民全員が、ひとつの道徳を共有し、道徳によって結びついた国だ、そういう意味で他の国とは違う、「美しい国」だ、ということが述べられています。そして、こういう国のあり方、成り立ち方を指して、「国体」という言葉が使われています。また、この、天皇家が樹立したとされる「道徳」こそが日本人を結び付けているものなのだから、それを次の世代にも教えていくこと、それが教育の目的なんだ、ということも言われています。 もう一つは、そこで言う「道徳」の中味です。「教育勅語」にはそれも書かれています。はじめは親孝行とか友だちは信じ合えといった、国民にも分かりやすい、受け入れやすいことから書かれていますが、そういう日本人の「道徳」をだんだんと範囲の広いものに拡げていくことで、最後に行き着くのは「戦争になったら天皇家を助けて勇ましく戦いなさい」ということです。これこそが、「日本人」であるために実践しなければならない「道徳」だ、ということが学校を通じて徹底的に教え込まれていたわけです。そういう教育を、すでに40年以上にわたって続けていたのが、1930年代の日本社会の一つの側面です。 もう一つ、その時代の日本社会についてお話ししたいのが、その頃はまだ比較的「できたばかり」だった、「治安維持法」という法律です。1925年に、普通選挙の実施と同時につくられた法律ですね。この法律は、先ほど出てきた「国体」というもの、これを変えることを目的とした団体をつくったり、それに加入したりした人は罰する、という法律です。最高刑ははじめは懲役10年ですが、第2条で、そういう団体をつくろうという話し合いをしただけでも、懲役7年を最高とする罰則が設けられています。 つまり、天皇(実態としてはその周囲にいる政治支配者)の考えを、国民が一体となって共有し実践する、そういう国のあり方を変更しようと企む団体を、それをつくろうとする話し合いの段階から、警察が取締り、罰しようというものです。「教育勅語」がうたいあげた国のあり方を、刑事罰でもって国民に強制しようというのが「治安維持法」だったわけです。治安維持法はその後数回の改正を経て、1940年には、問題となる団体の役員・指導者には死刑、ただ協議をしただけでも懲役10年という、非常に苛酷な罰を伴った法律になります。さらに、「国体の変革」など目的としていない団体・個人であっても、政府の方針に逆らった言動が明らかになれば、治安維持法が適用されて逮捕されるようになっていきます。一つだけ例を挙げますが、1939年、キリスト教宗派の一つである「灯台社」の信者が陸軍に召集された後に「兵器は殺人の道具である」として、宗教上の理由から銃の使用を拒否し返納するという事件が起きたのですが、この信者の態度を支持した灯台社の指導者達が治安維持法違反で一斉に130名検挙されています。灯台社は結社禁止とされます。つまり、宗教上の理由から戦争への反対を言っただけで逮捕される、下手をすれば死刑、そのために使われる法律になっていくわけです。 教育勅語に基づいた教育と治安維持法によって、政府に反する言論や活動を一切封じられた社会。それが1930年代の日本です。そして言うまでもなく、1931年には満州事変、37年に日中戦争、41年の太平洋戦争と、この時代こそが、あの戦争へと突入していく時代です。勅語と治安維持法は、日本が戦争へと突入していく際に、国民から批判的思考を奪い、市民社会の異論を力で封じ込めるための、二つの大きな装置、車の両輪であったと言っていいでしょう。 現在の政府は、森友騒動を受けて、教育勅語を教材として使うことまでは否定しないという見解をわざわざ明らかにしました。それは、歴史を学ぶ題材として教育勅語を批判的に扱おうということを奨励したものではないと思います。塚本幼稚園のような教育に共感する人が総理大臣を務めているわけですから、まだ意味などわかりようもない幼い子どもに、それを暗唱させるような教育を「アリ」だと言っているわけです。 そして昨日成立に向けて一歩進んでしまった共謀罪法案。たとえば何かの政策に反対するために座り込みを計画したら、たとえ後からそれが法に触れると判断して中止したとしても、「共謀」罪は成立してしまいます。テロとは何の関係もないような犯罪も含めて、非常に多くの犯罪が、「共謀」の段階から罪に問われることになっています。国会ではキノコ採りが話題になりましたが、一般の窃盗罪も、著作権法違反も、威力業務妨害罪も、すべて「共謀」で逮捕・処罰可能になります。普通の市民のする普通の行為や会話が、ものすごく広い範囲で捜査と取締りの対象になりうる。これは政府に批判的な市民運動などにとって、強烈な萎縮効果をもつでしょう。 教育と刑罰、この二つをセットにして、政権が目論んでいるのは、1930年代のような、政府の行うことに国民が一切異論を唱えることのできない社会の再来ではないでしょうか。戦前への回帰、戦前のような社会をふたたびつくること、それがねらわれているように思えてなりません。そして、それは戦争へのブレーキを失わせる道です。 かつてこの国がおかした過ちを、同じような形でふたたび繰り返させるわけにはいきません。できることをしましょう。情報を集め、学習し、周りの人と話しましょう。Noと言える今のうちに、精いっぱい、Noをつきつけましょう。 2017年5月20日、私は、戦前社会の再来を拒否し、それを推進する者に断固としてNoと言います。 ―――――――――――――――――――――――――― (2017年05月21日入力)
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